中野江漢「「支那は不可解でな」く、支那を觀るには、『支那の眼鏡』を以ってすればよい」
2012-11-20


われわれ日本人は、長らく、中国の実態、中国人の性格を知らないまま、安穏と暮らしてきたように思う。1972年の日中国交正常化によって、中国と再び、交易を復活した。戦前は清国、中華民国であり、戦後は台湾(中華民国)と断絶して、中華人民共和国と国交を結ぶことになった。戦前にも日華排斥の運動があり、てこずった。中国ウォッチャーが結構本を書いていたが、戦後は知らされないままに経過した。ほぼ100年経過しても我々は、再び、厄介な中国と向き合って、おろおろするばかりだ。
 もっとも、戦前でも、日本人は日清戦争で初めて中国人に接したと、宮脇淳子氏の著作にあった。また東亜同文会という組織があったことは意外に知られていない。中国と交易をするにあたって何も知らない状況から明治31年に発足し、上海市で東亜同文書院大学を経営し、日中貿易の専門家を育成していた。
 WIKIから「同文会
同文会は東亜会設立の翌1898年、貴族院議長・近衛篤麿を中心に結成された。この会の事業綱領は以下のようなものである。
1.支那問題を研究するとともに各般の調査に従事し、各種事業の助成を図る。
2.上海に同文会館を設け、両国有志の協同を図る。
3.東京にあっては『時論』、上海にあっては『亜東時報』の両雑誌をもって通信機関とする。
4.上海における同文学堂をもって、両国人の教育機関とする。」
 ここのOBこそ、理想的な人材であった。「支那の眼鏡」をもって、日中交流に活躍したのであった。敗戦とともに解散となった。そして、戦後は再び閉ざされた情報空間の中で手探りで、日中交易が再開された。
 アメリカの学者・ハンチントンの『文明の衝突』(1996年)で日本は中国の属国になると予言されて、これに当時の知識層、経営者が飛びついた。アメリカ様を離れて中国様の時代か、というわけだ。戦前の歴史、それも半世紀前の歴史を知らないまま、贖罪感だけで、中国に靡いてしまった。
 これにはGHQの占領政策、東京裁判史観の浸透が大変大きい。加えて日教組の自虐史観の教育もある。日本人の頭は左翼の史観で染まってしまった。中学校の社会科の先生は天皇陛下をして「天ちゃん」とふざけた教育されたものである。子供心にも「これはひどい、なぜあんな暴言を吐くのか」と自宅に掲げられた昭和天皇家族の写真を見て思ったものであった。
 表題の通り、中国人と付き合うには、その考え方に染まるが良い。しかし、それと日本の領土、日本における振る舞いは別で、日本の法に拠ってもらうことである。
 これを無視して、外国人参政権を付与するとか、人道的配慮による生活保護支給、年金を支給等はごくごく少数なら、目をつむるとしても、これだけ活発な交流になれば、話は別だ。日本人の富が外国人に食われてしまう。正直者がバカを見るようなことでは困るのだ。
 次の政権を担う政治家は、こうした中国人の性質をよく知悉した上で、取り組んで欲しいものである。中国人に急所を握られ、日本に不利な政策を打ち出すような政治家では困る。それを促す商人も困る。 

WEB版産経新聞から
上海支局長・河崎真澄 歴史繰り返す中国の独断論
2012.11.18 03:18 (1/4ページ)[土・日曜日に書く]
 「あのとき暴徒化したデモ隊がなぜ、青島や蘇州などでパナソニックの工場を襲撃したか知っていますか?」。ある中国人研究者はこう言って記者の反応をみた。

 日本政府の沖縄県・尖閣諸島国有化に抗議した反日デモが中国各地で吹き荒れてから2カ月。多数の日系企業が被害を受けたが、満州事変の発端となった柳条湖事件から81年を迎えた9月18日に少なくとも125都市で起きたデモを境に“嵐”はぴたりと止んだ。


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