2012-09-05
「排日 中国人」でぐぐるとブログ「しばやんの日々」がヒットした。
今、新聞等では中国において、反日というが、戦前では、排日だったことを志賀重昂全集第壱巻P270の「支那排日の善後」で知った。当時の「日本の実業家は『支那における日貨排斥は年中行事なり。恐るべきにあらず』となし、新聞紙は『排日貨熱尚熄(や)まず』と言説す。思わざるの甚だしきもの云ふべし。知らずや、今回における支那の排日は、積年来支那人が日本に対する積不平、積不満の総勘定にして、中略、支那人は遂に排日を止めず。」
そして、その火種は日本への留学生と言っている。米国、英国、独国ならば賞賛したり、贔屓になったり、崇拝の的にするが日本への留学生は「即ち日本を呪い、中略、学校を呪い、中略、下宿屋を呪う」という。大隈侯は支那人に信頼されていたが、内閣を組織すると所謂二十五条を支那に迫った。「支那人には事の意外なるに喫驚した。支那保全一点張りたり大隈侯、其侯の組織せられたる内閣が西洋各国よりもヨリ以上の条々を以って迫り来たれるを見、支那人は怨恨した憤怒した。」
その後の寺内内閣は大隈侯の言行矛盾を支那人に明示、却って支那人に不審視された。原内閣も同じ。「三代内閣の矛盾政策こそ中略排日の燃料」「米国資本家の対支大放資の計画の発表は、打算是れ生命とする一部の支那人をして復た日本に依頼するの必要なしと感知せしむるに至ったのである。」最後には「切に国論の統一を待つ」と結んでいる。
こうした日支または、日華、日中関係の撹乱には背後があったのであろうか。そこで「しばやんの日々」からコピペして、戦前の歴史の論考をつないで、考えてみた。志賀重昂の執筆は大正8年8月の「日本一」への寄稿。大正8年は今の反日につながる排日のスタートであった。
「今回の『GHQ焚書図書開封7』では、中国研究者の長野朗氏が昭和17年に上梓された『支那三十年』という本が紹介されている。その中で、中国の「排日運動」が何故起こったかについて具体的に書かれている部分を、長野氏の文章を引用しながら紹介したい。
長野氏は中国で「排日運動」が始まった大正8年(1919)には北京の中国人の家に下宿しておられて、「排日運動」が「抗日運動」になるまでを身近に見て来られた人物で、長野氏の中国に関する著作はこの著作も含めて18冊がGHQによって焚書処分の指定を受けているという。
『支那三十年』にはこのように書かれている。(原文は旧字・旧仮名遣いだが、新字・新仮名遣いに変更している。[ ]内は西尾氏の補足部分。以下も同様。)
排日が起こったのは大正八年の五月四日であるから、五四運動(ごしうんどう)といわれている。やったのは北京大学の学生だが、起こりはいろいろでここに詳しく述べている暇もないが、第一には英米が欧州戦争[第一次世界大戦]中に、東亜の市場を日本に独占されていたのを、何とかして取戻そうとして、排日を煽り日貨排斥[日本製品ボイコット]を宣伝した[「五四運動」の裏にはイギリスとアメリカがいたというのです。]。欧州戦争中はさすがに気兼ねしていたが[日本は英米側についていたから]、休戦ラッパが鳴り響くや[1918年]忽ち英米新聞が排日の宣伝を始め、それが支那新聞に伝染し、漸く気勢[「排日」の気運]が出来てきた。」(西尾幹二『GHQ焚書図書開封7』p.164)
この部分は一般的なわが国の教科書ではこう記述されている。
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