2012-07-01
谷沢永一・渡部昇一『孫子・勝つために何をすべきか』(PHP文庫、2003.10.17刊)より、地形編の中から。( )は筆者注、中国関連のみ部分的に転載しました。
「敵を知らなければ、己の立場もわからない」
たしかに、日本は(アメリカとの)戦争に負けました。中略。日本では、アメリカについてのそんな研究をまったくやっていなかった。戦後になって時間が経った今でも、まだそれが十分に分かっていない。要するに、敵を知らないのです。
それはいまの中国に対しても同じです。中国を信用するなどということは、中国を知らないことの最たるものです。共産主義中国を民主主義中国にしたいのなら、ODA(政府開発援助)なんか出さなければいい。理由はあります。「中国は他国を助けている。他国を助ける国に金を出す必要はない」と切ってしまえばいいのです。#
注:古森義久『日中再考』(産経新聞社、2001.6.30)のP48を孫引きすると「1989年6月の天安門事件の直後、私たち外務省の人間が必死で中国へのODAの停止に取りかかっている最中、私たちの知らない間に大蔵省管轄の別の対中資金供与がどんどん進行していたのです。あの驚きと憤りはいまも忘れられません」とある。
日本輸出入銀行による中国向けの資金供与のこと。実態としては援助。
「だが最大の問題点は、この資金供与がODAと異なり、対中外交の枠組みにおかれ、旧輸銀とその監督官庁の大蔵省により独自に実施されてきたことである」
「ODAは外務省が中心となり、曲がりなりにも日本の対中外交の枠内で「ODA大綱」に基づき推進されるが、輸銀資金は実態は援助なのに、対中外交とは別の次元で勝手に供与されてきた」
「しかもいつも中国の要請に従う形だった」「陰の対中援助」
#幕末から明治のはじめにかけてのころですが、ハリー・スミス・パークスというイギリス公使がいました。この人は就任当時、やたらに日本人を怒鳴りつけていたのに、そのうち止めてしまった。彼は日本に来る前に、シナの公使か何だかだったらしくて、シナ人は脅かさなければ動かないということを知っていた。
日本人も同じ顔だから、脅かさなければダメだろうと居丈高に接していたが、日本人は生麦事件などを見ても刀を抜く。これはシナ人と違うぞと悟ったわけです。
このように、シナ人はこちらが低く出れば向うも低く出るというような国ではない。その証拠に、江沢民が来日して、「戦争責任を認めるサインしろ」と言った。とき、小渕首相は「これが最後ならサインしよう」と答えた。ところが、江沢民はその約束をしなかった。
韓国の金大中大統領のときは、「これを最後にしますから」と一札とって「それでは」とお詫びを書いた。(本当はその必要もなかった)それ以後言ったら、向うの違反です。江沢民も同じことを要求したわけで、「韓国の大統領には約束したのに、なぜオレには約束できないか」「韓国の大統領は二度と言わないと言った。その約束をしてくれますか」「ダメだ」「それではサインできません」というわけです。
その後も江沢民は、皇居の晩餐会などで「戦争責任」と言うので、日本側は硬化した。そうしたら中国は急に態度を変えて、1999年の5月に小渕さんが中国を訪問したとき、江沢民は「戦争責任」のセの字もだしませんでした。
シナはそういう国だということを、日本は知らないのです。中略。
ところが、シナ通と言われる人は意外にしてやられる。この国は接待がうまい。パーッと美人を並べて接待するんだそうです。そんな待遇を受けると、シナ贔屓にのめりこんでしまう。だから、してやられるわけです。中略。
だから、シナ人と交わる人の意見は危ない。自民党の中国通と称している人などが危ないんです。彼らはシナ人を知らない。最近になって日本人は中国に対する幻想を捨てはじめましたが、あの国はあまりにも犯罪が多い。後略。
セ記事を書く